
05.02.16

ドキュメント 08
中世古さんは、成熟した人を誰か知ってますか?少なくとも僕らが生きている時代のなかで。芸術家は残念ながら皆ダメですね(笑)文学、音楽、哲学、政治、どの領域も恐らく全滅ですね。では、表現とは未熟であることの証しですか?人が未熟で作品が成熟していることはありますかね?それを見る(受け取る)者が未熟であるならどこでそれが成熟していると判断できるのでしょう?『カタチ』とはつくづくダメです
ね。でも、どうして僕たちはカタチに溺れるのでしょう。この感情は始末に困ります。
未熟者ですから。中学生くらいの時分にほんの一時期、変にココロが深くなった時があります。なんの手掛かりもないままイタズラに時が過ぎてゆくなかでただ風景を眺めていました。感傷ともちがい、見える景色がいちいち納得できる?そんなふうに変てつもない風景を見れた時がありました。あれはなんだったのでしょう。もちろんその事を絵にも言葉にも残していません。その記憶をもっているというだけです。外に対して形にする術をもたずに内部に映し込む風景だけを確実に見ていた。あの「確実」や「精度」を、現在の僕はやはりカタチにして誰かに伝えることはできません。
見たモノを手がなんなくなぞれたことは僕は五十年近く絵を描いてきて、たったの2回しかないのです。僕はそれを、「第一日、第二日」と言ってます。24の歳と四年前でした。いずれも風景画です。でも、成熟かといえばやはりちがうのです。「ちがう」、を「違う」と書かないのは「違わない」「正しい」が対語の関係にはないからです。未熟ではあるけど、第三日を迎える日を待っています。話しがあやしくなってきました。成熟の人を誰か思い浮かべるとしたら、僕は、マザー・テレサです。水をください、と乞う人に、ただコップ一杯の水を与えたから、という理由で。ではまた。
中世古佳伸様
O JUN
O さんメールありがとう。
小津の「秋刀魚の味」の中に、笠智衆が岸田今日子のバーで飲むシーンがありますね。
そこで、軍隊時代の部下である加東大介が偶然入ってきて「軍艦マーチ」を流し、笠さんが笑みを浮かべ、敬礼しながら聴くのですが、僕はあの笠さんの顔は本当に美しいと思うのです。監督の小津は成熟の人かどうか怪しいものですが、映画の中にいる笠さんは成熟した人のように映ります。いや正確には、未熟であることの意味を知っている人物といったほうがいいのかもしれません。
未熟という言葉には、経験不足とか、まだ若いとか、世間知らずとか、甲斐性がないとか、何かと社会人であるための条件にまだ達していない、という意味合いが強いですね。ま、かつては経験のある大人が下の者を教育するという構図がありましたが、この競争社会の時代では、成熟化した子供もいれば、未熟な大人も増加して、中々一筋縄ではいかなくなりました。ただ、僕は気をつけようと思っているのは、そんな制度やシステムや変化なんかに振り回されては、誰だ?てニートにもひきこもりにもなるし、ましてや、幼児性を良しとする、こんなハリのない空気に巻き込まれるのは、まっぴらごめんだ、ということです。
僕は笠智衆のあの笑みの中に、自らの過去や歴史に触れてほしくないうしろめたさを胸にしまい込むことで、今日という時間を生きようとする気づかいを感じるのです。
何かそこに広がり、漂う空虚な正体の意味を考えろ!と、笠さんに教えられるのです。
僕らは同時に2つの「カタチ」を見ることになります。ひとつはメッセージとしてのカタチと、もうひとつは、小津のつくり出す虚構のカタチです。こっちの方は、表現とか、芸術とか、スタイルとかいろいろあてがいながらも、一向に正体がつかめませんね。小津でなくてもいいのに、小津でなければいけないカタチ。できれば、そんなカタチなど意識しなくてもいい、もっと大事なものだけを知ることができれば、どんなにか楽だろうと思うのですが。またメールします。
仲世古佳伸
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